こんにちは!三平です。
今回の訪問先は守口市金田町1丁目21-25の東洋木材(株)さんです。応対して下さったのは会長の多田正司さんです。地下鉄谷町線大日駅から徒歩で30分少々、広い倉庫の入口に本社ビルがありました。
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↑ 外観 |
多田会長とは初対面に近いのですが、三平が質問を始めるまえ、名刺交換直後からお話を進められました。「大阪木材仲買協同組合には30年ほど前に良くお世話になっていました。息子は2人で、樟葉と四条畷の店を任せ、本社を継がせるのではなく、今では2人とも独立して商売をしています。現在は土地や不動産の収入もあるので、この本社では私が会長職ですが、社長として面倒を見ており、商売の85%は子供たちに移管している状態です」。つまり、保守本流の木材の商売はご子息2人が夫々の場所で違った形態で継承している、独立した法人として、ということです。更に続けて、「木材の話なら、樟葉と四条畷のお店に行った方が良いかもね」とおっしゃいました。「いえいえ、東洋木材さんの歴史と木材の話ならやはり会長さんが適任ですよ」と三平は答えました。
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↑ 多田会長です
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東洋木材(株)さんは昭和39年、現会長の多田正司さんが門真の古川橋で創業されました。「会長さんが初代ですね。元々木材業に従事されていたのですか?」との質問に、次のように話して下さいました。「大正初期の頃、福岡県内野村で国鉄の隧道を掘る仕事があった。トンネル工事に労働者がたくさん集められ、彼らの住居用の木材やトンネルの坑木が必要とされた。これを機にそれまで農業と林業を営んでいた祖父の多田松太郎が製材をはじめた。ところがトンネルの工事が終れば仕事はなくなってしまう。そこで父親の多田秀雄の時代に石炭の町・飯塚に出て製材業をスタートさせた。多分、昭和7年前後だと思います」。東洋木材さんの前身は製材所、それも福岡県飯塚市だったのです。
これまでの話に、まだ多田会長の名前が登場しませんね。当然です、多田会長は昭和10年生まれですから。戦後、エネルギーが石炭から石油(重油)に移り、飯塚の町も衰退の一途を辿りました。そこで多田会長は「炭坑ではなく、今後は大阪に出て修業をしよう」と思い立ち、昭和34年、大阪都島の材木屋さんに縁あって入社しました。多田会長は中央大学文学部卒業です。当時は今と違って大学への進学率は低く、材木屋さんの跡取り息子でも「商売人に学問はいらん」という風潮が根強く残っていた時代です。大卒が丁稚奉公とは変ですよね。次は、その点について質問しました。
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↑ 加工機です
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「私は、高校時代親父への反抗心が強かった。」と多田会長。続けて、「親父は自慢する割りには商売が上手とは思えず、変な話だがその反抗心から材木屋の跡を継ぐ意志を固めていた。つまり親父とは反対のことをして儲けてやるんだ、という気概だった。だから大学時代から東京の木場で材木屋のアルバイトをしていた。その時は大阪で力を試したい、製材の勉強をしたいという気持で一杯だった。丁稚時代、炊事洗濯なんでもやった。母の死去を契機に、親父を説得し姉の支援を受けて古川橋で昭和39年に独立開業した。」と話して下さいました。
東京オリンピックで沸いた昭和39年前後は日本の経済復興、高度成長真っ盛り。ドーナツ化現象で古川橋周辺も住宅ラッシュだったという。会社名は最初は「飯塚木材」か「福岡木材」にしようと考えたが、炭坑が落ち目で縁起が悪いと思い「東洋木材」に決めたという。「当時、屋号のつけ方や材木屋の慣習なんか知らなかった。だから東洋木材という名前はユニークな屋号だったらしいよ」と多田会長。3,4年経った昭和43年に当地に移転、法人に改組しました。
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納材業者の次に建売業者の時代になった。だから当時の客の95%は建売業者で、彼らに一般建築材を販売していました。その頃は、市内の材木屋には大工・工務店さん向けの広い加工場(刻み場)がなく、「作業場の広さ=売上の規模」と考えて作業場を確保しました。6m×6mを1区画として40区画以上を設け、大工さんを抱えて大工さんを紹介する。今で言う「人材派遣業」のようなこともしたそう。一時期300名以上の大工さんが登録。その広い加工場が現在の収益源でもあるんです(笑)。
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成長を続けてきた東洋木材さんですが、多田会長の思いは複雑です。「プレカットの時代になり流通が変った。市場に行って木材を仕入れる楽しみもなくなり、加えて住宅そのものが変化してきた。当社の売上の80%以上が非木材になってしまった」と。
多田会長は続けます。「長い目で見れば良いことなんだろうが」と前置きして「2,3年前の建築基準法改正による官製不況には参りました。地場の工務店が受けたダメージは大きく、加えて今回のリーマンショックが追い討ちをかけた」。
ご子息2人が営む会社について伺いました。
四条畷はトーモクセンター(株)といって、誰にでも販売するセンター方式をとっています。現金商売で配達は行っていません。八尾に支店を設置されたとのこと。一方、樟葉(枚方)は(株)トーモクという会社で従来型の商売とセンター方式を併用しているとのことでした。
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建築業は以前やったが今は止めました。流通業はモノづくりが下手だからね。それよりこれからはエンドユーザーだと思います。その方法を子供たちに考えよ、と指示している。従来型の材木屋には真の営業マンはいなかった、と言うより育てていなかった。だが子会社2社のセンターは全員が営業マン。多田会長の持論が徐々に出てきました。
更に続けます。今は産業革命の時代だ。リーマンショックは100年に一度と言われるが、私は500年に一度だと思っています。太閤さんが大阪城を築いてから500年。500年前にスタートした木材の商売の流れが全滅してしまった。「500年に一度の未曾有の大不況」の言葉には驚きましたが、それなりに説得力があります。エンドユーザーを対象とするには、それなりにノウハウが必要です。ホームセンターのコーナンの前で工務店にチラシを配るのも一つの方法ではないか。材木屋の強みは商品知識があることだと思う。
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趣味について伺いました。いろんなことをやってきたがゴルフと読書かな。常に夢を追い続けてきた。商売の中で自分を磨く。人生は長丁場、金儲けだけが人生ではない。商売と趣味とロータリークラブ等が勉強の場、人生の三本柱だと思っている。
多田会長、興味深いお話を長時間ありがとうございました。
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東洋木材株式会社
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