こんにちは!三平です。
今回の訪問先は大阪市生野区桃谷5丁目7番3号の渇ェ房商店さんです。応対して下さったのは社長の岡本房之助さんです。三平がこのシリーズを担当して4年ほど経ちますが、岡本房之助さんは最年長の社長さんです。大正11年1月1日生まれですから、平成21年春で御歳87歳、まさに大長老です。
岡房商店さんは大阪の材木屋の中でも知名度が高く、先代の岡本佐一さんは大阪木材仲買協組の初代理事長、大阪木材相互市場の社長も務められた人物で、戦後の大阪木材業界の「中興の祖」的な存在だったのです。私事になりますが、三平の祖父真平と岡本佐一さんは義理の親同士だったのです。ですから幼い頃から佐一さんとは面識がありました。昭和30年前後、ツルツル頭の佐一さんとでっぷりと肥えた真平が塩町(横堀の近所、今は南船場4丁目)の新聞社の事務所で度々「花札」遊びをしていたのを覚えています。当時は岡房の大将がそんなに偉い人だとは思いもしませんでした。
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↑ 平野川から望む |
例によって脱線しましたが本題に入ります。まずは、お店のルーツからスタートです。岡本社長はのっけから釘を刺しました「昔のことしか知らんからな」と。87歳ですから10年、20年先の木材業界の将来展望を伺うより、業界の歴史を語って頂く方がより説得力があります。
創業は大正元年だそうです。明治の中頃、立売堀に鳶房(とびふさ、川仲仕)の親方という人がいました。筏師(いかだし、沖仲仕の意)と言う職業をご存知ですか?水面で丸太の上に乗って廻材や仕分けの仕事をする専門職のことで、かつては○○回漕店とか○○組と称して隆盛を極めました。が、時代とともに需要がなくなり今では大阪住之江区の平林に1社が残っているだけです。川仲仕も多分同じ職種だと思います。西区の立売堀川周辺で木材の作業をされていたのでしょうね。今で言う一種の物流業です。その後、房吉さんは陸に上がって鶴橋に移転し材木屋を始めました。木材の運送業者から材木屋に転進した人を三平は何人も知っていますし、その理由も分かります。つまり、木材の配達を通して材木屋さんと懇意になるからです。「あいつはよく働く」という評判が信用を生むのです。木材の専門知識や相場もひとりでに覚えるのでしょうね。
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↑ 岡本社長
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岡房商店の人的なルーツは複雑で、先代の岡本佐一さんの登場までを説明するのは骨が折れます。簡単に言えば、房吉さんの息子が鹿蔵さんでその息子が現社長の房之助さんです。鹿蔵さんが昭和3年に夭逝され、当時岡房の番頭だった石黒佐一さんが岡本家に養子に入って、同じく養女に入っていた八重さんと結婚し、後見人として岡房の屋台骨を支えたのです。だから三平が若い頃、岡房にはおばあちゃんが二人いました。鹿蔵さんの奥さん(通称・大きいおばあちゃん)と佐一さんの奥さん(通称・小さいおばあちゃん)です。佐一さんは愛知県の出身です。「実の親以上の存在だった。岡本佐一が実績を売ったのは戦後市場が再開した頃、仲買組合の前身を立ち上げた頃かな」と岡本社長。
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↑ 事務所内
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岡本社長は佐一さんの思い出を次のように話して下さいました。「当時は久我俊一さんらと懇意で仲買の理事長や相互市場の社長をやった。その頃は、社員教育が盛んで、教育担当として各方面に講演に出向いた。評判は良かった。昭和50年、三和銀行生野支店の行員の前で講演中に倒れた。享年70歳やった」。さらに、その頃の材木屋さんについては「当時は若くして業界の重責を担っていたが、事業に精一杯打ち込み、暇を見つけては趣味といっていいほど人の世話をしていたなぁ。」と話して下さいました。
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↑ 房明専務
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岡本房之助さんの社長就任は昭和34年、37歳の時です。佐一さんが相互市場の社長になる時に譲られ、譲ってからは任せっきりだったそうです。現社長は87歳、三平は社長交替について質問しました。「難しい時代が続いたから譲る時機を逸した。実務は長男で専務の房明が仕切っているが・・・」と。その専務の岡本房明さんは昭和24年生まれ。大阪木材青年経営者協議会の会長(父房之助氏は昭和41年度の会長)や大阪木材親尚会の会長を務められた立派な人物です。
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↑ 倉庫 |
岡本社長は興国商業卒。軍隊生活は2年6ケ月、22部隊に入隊。「内地勤務のみで恥ずかしいくらい国に尽くしていない」と岡本社長。戦争中の記憶は聞いている三平がビックリするほど鮮明で時代考証も正しく、戦争中の話だけで20分にも及びました。
昭和20年9月15日に復員。上本町六丁目の河野樵太郎氏が経営していた材木屋で働き、そこで紙野省一(紙庄)氏と出会う。木材統制令が解け焼け野原を整地して猪飼野中3丁目(今の桃谷5丁目)で木材業を再開。その頃、台湾アリサンの台桧を中久保昇二郎氏の斡旋で連合軍から払い下げてもらい、結構商売になったそうです。
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↑ 倉庫内
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岡房商店は大工・工務店さんを相手に一般建築材を扱う典型的な仲買さんです。屋形屋さんとも言います。今の事務所・倉庫は前述の台桧で建てました。バラックが普通だった当時「御幸御殿、猪飼野御殿」と呼ばれたそうです。お店の前には平野川(猪飼野運河)が流れています。かつて川沿いには材木屋さんが軒を連ねていました。いまでもかなりのお店が営業をされています。
岡本社長は「心配なのは、大工・職人さん。これからは熟練した大工・職人さんが一番必要になるとき。私が若かったら職人になりたいくらい。材木を売るのも大事かもしれないが、お伊勢さんの20年毎の式年遷宮方式を見習うべき。難しいかもしれないが、これからは他業界と手を組んでやるべきだ。プレカット工法でも、手加工が多くなっているのが現状。組合も設計業界や建設業界と組んで大工職人の養成に力を入れていただきたい。」と業界についても話して下さいました。
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最後に、お店のPRをお願いしました。
「特徴のないのが特徴かな。仕事を厭わない、当たり前だが親切」。材木はいる人しかいらんのでPRは難しいが宣伝は大切や。今は切羽詰っている。材木屋で真剣に材木をやっている人が少ない。生野区だけで40軒ほどあったが半減した。
組合は市場会社と共栄するため設立されたが、今は関係が薄れている。
今後、組合運営は組合員との理解と団結で運営していただきたいと語ってくれました。
社長業を半世紀されている岡本社長の含蓄ある言葉には重みがあります。とにかく、健康に留意して活躍してください。岡本社長、長時間ありがとうございました。
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株式会社岡房商店
〒544-0034
大阪市生野区桃谷 5−7−3
TEL 06-6712-0333
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